ネクタイは、二枚のパンに挟まれた「具」のようなものである。「具」がまずければ、どれほどおいしいパンでもまずく感じ、「具」がおいしければ多少まずいパンでも我慢できる。
ネクタイは、男が正しい装いをする中で、もっとも正体がよく分からないモノだが、もっともその人の正体を現すモノでもある。
我々がかろうじて理解できるのは、正しい装いの際に、それが絶対に必要であるという不可思議な現実的事実だけである。
スーツやシャツ、靴は身につけ、人間との一体感が必要だが、ネクタイは、首からただ所在なげにぶら下がっているだけだ。
ネクタイをぶら下げ、暑さ寒さを感じることもない。
ネクタイが肉体をガードしてくれることもない。逆にネクタイで首を締められ殺されたいう話は稀にある。靴で殴られ、殺されたという話は聞いたことがない。
ネクタイは、我々に何の肉体的快楽を与えることもない。
ネクタイは、150センチに満たない、たった一本のキレにすぎない。
にもかかわらず、それを首からぶら下げているだけで、公共の場の出入りが許される。社会の一員として迎えられる。特殊な場を除けば、色も自由である。ねじれていても、シミが付いていても、山のように積み上げられたバーゲン品であろうとも、それをぶら下げていれば、どんな場所でも入場が許されるという、なんとも不思議な性格を具えているシロモノである。
スーツを着ていても、ネクタイなしでは入場を許されず、逆にジャケット無しでただネクタイをぶら下げていれば、インフィーマル性は問われない。ノーネクタイが、すぐにカジュアルスタイルに結びつく。
だが深く詮索することはない。グローバルなコモンセンスとして確立されている以上、我々は、首にたった一本のキレをぶら下げるだけで、社会に参加していることが立証されるという現実だけを、重く受け止めればよい。現実に照らし合わせ、我々の社会で、ネクタイが非常に重要な意味を持っているということだけを自覚すればいいのだ。
それ以上深く考えるのはばかげている。本当は深く詮索すべきだが、一般の人たちにとっては、おそらくあまり意味がないと思えるからだ。
ただし、ネクタイそのものではなく、人の首を締めつけながら、人の体の中央にふてぶてしくぶら下がっているというネクタイの存在根拠については少しばかり考える必要がある。なぜその位置に、ネクタイが存在しなければならないかである。
人の首を締めなければならない理由は、ネクタイがそれをぶら下げた人に対して、身じまいを正すことを催促しているのである。
古来、日本の衣服の歴史に、日常的に首を締めつけるという習慣はなかった。にもかかわらず、近代になって突然ふってわいたようにネクタイが出現したのは、首回りをシャンとさせ、公共の場では正しい身じまいが必要だと、ネクタイが我々に警告しているのだ。
人の体の中央に陣取った理由は、ひたすら目立ちたいがためである。他人の目を集中させることを目的にしているのだ。ネクタイは、男が身につけるものの中で、もっとも客観的な視線を必要としているのである。
それが、ネクタイの存在根拠である。
ネクタイはスーツ同様、時と場所を選ぶべきモノであるという認識は、きわめて大切である。
とはいえ寒暖の調節もせず、肉体のガードもままならないのであれば現代のネクタイは、衣服ではなく装飾品の類であることは、ほぼ間違いない。
そこが重要である。
装飾品であれば、いつどんな場合にぶら下げるかが当然問われる。パーティー、葬儀、結婚式の装飾品は自ずと異なる。
だが不思議なことに、欧米とは違って、日本ではそれがどんな色、またどんな柄であろうと、冠婚葬祭を除けば許される。誰にも何にもいわれない。冠婚葬祭の黒と白以外は、すべて自由という風潮がある。
誰も何も言わない理由は、我々がネクタイを「単なる装飾品」であると思いこんでいるためだ。だから誰もが贈答に用いるのである。日本に出回っているネクタイの60%以上が、自分のためではなく他人のためだというデータもある。
他人が選んだネクタイほど気持ちの悪いものはない。それを喜んで締める人は、服装に関心があるようで、実は何も考えていない人である。
同じネクタイをしている人に出会うことほど、バツの悪いものはない。「この世に自分と同じネクタイをしている人を見ることは耐えられない」といったのは、確かバーナード・ショーである。
ネクタイは、それほど不思議な存在なのだ。だからこそ慎重に選ぶ必要がある。安価なタイを、数多くという考えは禁物だ。
イタリアのお洒落な男たちは、本当に気にったネクタイは100本のうち1本にすぎないという。そのネクタイを3日間続けて締める。代わりに、毎日異なるスーツ、シャツ、靴を身につける。
本来ネクタイとは、そういう類のお洒落のなのだ。
出典: ネクタイの正体(「男の服装術」 落合正勝 はまの出版 P141~P144から抜粋)